妻がブログを書きたいと言って書いているのを見ているといつも「すごいなぁ」と思う。

自分にはその熱量が圧倒的に足りていないのだ。

だからこうやってよっこらしょよっこらしょと重い重い重~い腰を上げてやっといくらかの文章が生まれる程度しかできない。

多分文章を書くのが嫌いという訳ではない。むしろ好きなんじゃないかとすら思う。

でも、自分の中ある発達障害だか何かがそれを妨げる。それでもやるには理由が必要なのだ。

妻との暮らしだってそうだ。

正直言って結婚前の自分は家事をほぼしていなかった。ゴロゴロ、ゴロゴロ、ゴ~ロゴロしていたのだ。

今は何かこう、やらないでいる理由よりやる理由の方が大きいと感じている。だからなんだかんだいって家の状態を保つということをしている。

ADHDにも色々あるだろうから、あくまで自分はこうという話でしかないが、自分の場合嫌いなことはできないのはある意味当然として、好きなことであってもそう易々とは出来たりはしないのだ。

ここで理由というのが出てくる。

自分にはやる理由なしに動くというのは非常に難しい。でもそれは義務とかそういうのとは少し違う。

「やらないといけない」というようなことでも「別に『オレ』がやる意味ないじゃん」みたいなことはやはり理由としては少し軽くなってしまう。

自分にとっての「熱」は情熱やら義務やら正義やらというりは、理由とか意味とか必要性みたいな感じなのかもしれないな。

今日出た「熱」はどんな種類のものだったのかな。